プロメテウス洞窟の見学を終えた後、クタイシ近郊のツカルトゥボで廃墟と温泉を巡った。日本にいた頃には名前を聞いたことのない場所だったが、実際に歩いてみると、この町が長い温泉保養地の歴史を持っていることが感じられた。
最初に向かったのは、ツカルトゥボ市内にあるSanatorium Metallurgistだ。市内にはいくつかのサナトリウム廃墟が残っているが、ここは保存状態が良いと聞き、途中で立ち寄ったレストランから歩いて向かった。徒歩10分程度の距離だったものの、少し急な斜面を上る。門を抜けると、青空の下に左右へ広がる立派な建物が現れた。外観だけでも、かつて大規模な保養所として使われていたことが伝わってくる。

ツカルトゥボの鉱泉は12〜13世紀にはすでに知られていたとされ、最初の浴場は1870年代に作られた。1925年頃から保養所の建設が始まり、1931年にはソ連政府によって正式な「バルネオセラピー(温泉療法)センター」に指定された。最盛期の1950〜80年代には19の保養所と9の浴場施設が並び、年間最大12万5千人が訪れたという。スターリンも脚の療養のために訪れたと伝えられ、鉱泉は「不死の水」とも呼ばれていた。Sanatorium Metallurgistは、製鉄業や鉱山業の労働者、いわゆるメタラジスト向けに作られた保養所である。
入り口では、施設を管理している難民の方に5ラリを支払った。1991年のソ連崩壊によって保養産業が衰退し、施設が放棄された後、1990年代初頭にはアブハジア紛争の難民約9000人が空いた保養所へ移り住んだという。現在も一部の家族がそのまま住み続けていると聞くと、単なる廃墟ではなく、今も人の生活と関わり続けている場所だとわかる。
建物の中に入ると、まず大きなシャンデリアが目に入った。当時としては豪華な保養所だったことが一目でわかる。管理人の案内通り左手へ進むと、装飾のある天井と壁に囲まれた部屋に、太い立派な支柱が並んでいた。床の一部は傷んでいたが、柱や空間の構成は今も残っている。

その奥には、小さなコンサートホールのような空間があった。半円形の舞台を囲むアーチ状のくぼみや、細かな装飾の残る天井が印象的だった一方、客席や舞台上には壊れたピアノなどが置かれていた。廃墟になったことで、かつて音楽を聴きながら保養を楽しんでいた場所が、静かな空間として残っている。ホールには犬がいたため、管理人が外へ連れて行ってくれた。廃墟ではどんな人間や動物が立ち寄るかわからないので、こうして見守ってくれる人がいることは、観光する側として助かった。



大きな部屋の一部では、床を突き出すように木が生えていた。天井や壁だけでなく、床も自然に覆われ始めている様子から、長く使われていない時間の経過がわかる。

2階部分から見下ろしたシャンデリアは迫力があった。今は照明が灯っていないが、広い吹き抜けの中央に大きく下がる姿を見ていると、かつてはまばゆい光の下で人々がリラックスして保養を楽しんでいた風景が浮かんだ。緑とピンクの色あせたエレベーターのようなものも残っており、当時の設備を想像する手がかりになった。



次に向かったのは、ツカルトゥボ中央公園だった。北西側から園内に入ると、ツカルトゥボの地形と姉妹都市を紹介する標識が目に留まった。整えられた芝生や木々の間に標識が立ち、保養地としての町の広がりを知る入口になっていた。

公園の南側へ歩いていくと、中央に大きな銅像を置いた噴水の向こうにSpring6が見えてきた。噴水では水が上がり、銅像と建物が一体になった景観になっている。Spring6はツカルトゥボの中でも最大の温泉施設で、廃墟となったサナトリウムとは対照的に、現在も温泉を利用できる場所だった。

内部へ入ると、白い柱が並ぶ広間の中央に豪華な大きなツボが置かれていた。床の大理石模様やアーチ状の通路も整えられており、施設の中を歩くだけでも保養地らしい雰囲気がある。廃墟で見たかつての装飾と、今も使われている温泉施設の装飾を続けて見ることで、ツカルトゥボの過去と現在が同じ町の中に残っていることを実感した。

個人用のバスルームは25ラリで、30分程度使用できた。浴室は灰色のタイルでまとめられ、階段状に下りた先に細長い浴槽がある造りだった。湯加減はかなりのぬるま湯だったが、暑い中を歩いてきた身にはちょうどよかった。湯あたりは肌に優しい感じがあり、歩いてきた疲れも大分軽減されたように思う。

温泉を出た後は、中央公園をさらに南側へ散歩した。平日だったからか、園内では一度も歩行者とすれ違わなかった。広大な園内には背の高い木々が並び、ピンク色の花が整然と植えられていた。人の少ない道を歩いていると、温泉施設の周囲というより、静かな森林公園を散策しているような感覚だった。


